残業代請求を和解で解決する場合の注意点-和解と賃金債権放棄

虎ノ門法律経済事務所名古屋支店では、残業代請求への対応方法をご提案するとともに、団体交渉・労働組合対策、ハラスメント問題、休職問題など各テーマ別ノウハウに基づいたご支援をさせていただくことが可能です。未払い残業代請求の問題等でお困りの会社様は、是非一度当事務所にご相談ください。

残業代請求と和解

従業員から未払残業代請求を受けた場合、企業としては、これに対して徹底的に対抗するのか、あるいは早期解決を目指すのか、請求内容や自社の就業規則、雇用管理の実態、他の労働者への波及可能性等を分析したうえで方針を立てることになります。そして、早期解決を目指す場合は、その交渉によって残業代を請求している従業員との間で和解をすることになります。交渉により解決ができた場合の和解の内容は、解決金の支払いによって未払残業代に関する債権債務関係を清算し、これ以上争わないことを約束するものが一般的です。
  
ところが、従業員によっては、後から「あの和解は真意ではなかった」、「会社から強要されたものだ」、「未払い賃金を放棄したつもりはない」などと主張して、和解の効力を争ってくることがあります。それは、「もっと多くもらえたかもしれない」という思いが後から湧き上がってくることによるものかもしれませんが、果たしてこのような労働者側の主張は認められるのでしょうか?また、企業としては、このような主張をされないために、どのようなことに気を付けるべきでしょうか?ここでは、残業代問題を和解で解決する場合の注意点について解説していきます。

和解の意義

和解とは、争いのある当事者間で互いに譲歩して争いをやめることを約束する契約です(民法695条)。民事紛争の自主的解決方法の一つであり、広く一般に利用されていることから、弁護士でなくともその意味するところは分かりやすいのではないかと思います。
  
和解が行われれば、争いの対象とされ、互譲によって決定した事項については、当事者はそれ以上争うことができなくなります(民法696条)。たとえ当事者に錯誤があったとしても、和解の効力は否定されません。権利の存否や範囲についてよく分からないまま和解したところ、後から和解の内容と異なる確証が出たという場合であっても、和解の効力は左右されないのです。これが和解の基本的な効力であり、そうでなければ法的安定性が損なわれて解決手段として機能しなくなってしまうでしょう。和解というのは、それだけ強力な効力を持つものであり、非常に重みのある契約だということになります。

賃金全額払いの原則と賃金債権放棄の有効性

和解はこのように紛争解決を図る手段として有効なものであり、後から「やっぱりあれはおかしい」などと問題を蒸し返すことを許さないものですが、和解の対象が賃金に関する事項である場合には、別途労働法規との関係で注意が必要となります。

賃金全額払いの原則

「使用者は、賃金の全額を労働者に支払わなければならない」という賃金全額払いの原則が、賃金支払原則として労働基準法上定められています(労基法24条1項)。その趣旨は、賃金を労働者に確実に受領させることにより、労働者の経済生活の安定を確保させることにあります。この賃金全額払原則の趣旨に鑑みて、労働者が賃金債権を放棄する場合には、判例上、その放棄の有効性に対する制約がかけられています。

賃金債権放棄の有効性

労働者による賃金債権の放棄は、それが自由な意思に基づくものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在している場合にはじめて有効なものとなります。つまり、使用者と労働者の間の賃金を巡る交渉において、労働者が賃金債権の放棄を一方的に示した場合や、何かの条件として賃金債権の放棄をした場合に、後から労働者の側が「前言撤回」の体で問題を蒸し返してきた場合には、その放棄に関し「自由な意思に基づくものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在している」か否かについて、裁判所から審査を受ける可能性があるということになります。

【シンガー・ソーイング・メシーン事件‐最判昭和48年1月19日】
事案

従業員Xは、Y社を退職するに際して、「XはY社に対し、いかなる性質の請求権をも有しないことを確認する。」旨の記載のある書面に署名してY社に差入れ、退職金債権を放棄したところ、後になってXは、退職金債権の放棄はY社からの強制によるものであるなどと述べて、その無効を主張した

判旨

・全額払の原則の趣旨とするところは、使用者が一方的に賃金を控除することを禁止し、もつて労働者に賃金の全額を確実に受領させ、労働者の経済生活をおびやかすことのないようにしてその保護をはかろうとするものというべきであるから、本件のように、労働者たるXが退職に際しみずから賃金に該当する本件退職金債権を放棄する旨の意思表示をした場合に、右全額払の原則が右意思表示の効力を否定する趣旨のものであるとまで解することはできない
  
・もっとも、全額払の原則の趣旨とするところなどに鑑みれば、右意思表示の効力を肯定するには、それが労働者の自由な意思に基づくものであることが明確でなければならない
  
・Xは、退職前Y社の西日本における総責任者の地位にあったものであり、しかも、Y社には、Xが退職後直ちにY社の一部門と競争関係にある他の会社に就職することが判明しており、さらに、Y社は、Xの在職中におけるXおよびその部下の旅費等経費の使用につき書面上つじつまの合わない点から幾多の疑惑をいだいていたので、右疑惑にかかる損害の一部を填補する趣旨で、Y社がXに対し「XはY社に対し、いかなる性質の請求権をも有しないことを確認する。」旨の書面に署名を求めたところ、これに応じて、Xが右書面に署名した、というのであり、右事実関係に表われた諸事情に照らすと、右意思表示がXの自由な意思に基づくものであると認めるに足る合理的な理由が客観的に存在していたものということができるから、右意思表示の効力は、これを肯定して差支えないというべき

未払い残業代請求に対する和解の考え方

和解と賃金債権の放棄

労働者から未払い残業代請求を受け、相応の金額を支払うことにより和解をした場合、和解の性質上その支払額は「未払残業代全額」ではないことが通常ですので、支払いを受けない部分の残業代については、賃金債権を放棄したのと同視できるという見方もありえます。そうすると、従業員の側が和解を蒸し返して再度残業代請求をしてきた場合、和解上でなされた賃金債権の放棄について、「自由な意思に基づくものであると認めるに足る合理的な理由が客観的に存在していた」か否かが裁判所によって審査され、自由な意思に基づくものではないと判断された場合には、和解が無効となり残業代の支払義務を負うという可能性が残ることになります。

未払い残業代請求そのものについての和解であることの意味

しかしながら、これでは、最初に述べたような和解が有するはずの紛争解決機能が損なわれ、使用者は、せっかく和解により残業代問題を解決したとしても、その和解が覆される可能性に怯えなければならなくなります。
  
強迫といえるようなものでなければ、和解は、使用者・労働者それぞれが譲歩をしたうえで、100%の満足ではないけれども相応の解決を志向して行われるもので、その時点では確かに「自らの意思」で合意をしているはずのものです。それが後から、「労働者の自由な意思に基づくもの」という法的評価を巡って争う余地を残すということは、著しく法的安定性を損なうものと言わざるを得ません。
  
裁判上賃金債権放棄の有効・無効が争いとなっているものの多くは、たとえば不正経理の弁償として退職金を放棄した場合や、退職金が上乗せされる代わりに残業代を放棄した場合、あるいは経営危機に際して将来の賃金債権を放棄した場合など、ある特定の問題の解決のための条件として賃金債権の放棄が行われている事案です。こうした事案の場合は、まさに上記昭和48年1月19日最高裁判決で示された「賃金債権の放棄の有効性」が論じられるべきものといえます。もっとも、未払残業代請求がなされた場合には、未払残業代という賃金債権は単なる交渉条件ではなく、交渉対象そのものです。その有無及び額を巡って交渉がなされ、その結果として合意がなされたのであれば、それは賃金債権の放棄ではなく、別個の「和解」という法律行為であると考えるのが合理的です。
  
そもそも未払残業代について使用者と労働者との間で紛争が起きた場合、それを交渉によって解決するとしても、使用者が労働者の主張する残業代全額の未払いを認めるということは通常ありません。労働者側の計算方法がおかしい、基礎時給の算定が間違っている、いつといつの残業代は支払済みである、固定残業代制度により全額支払っている、働いていない時間があり休憩時間にあたるはずだ、管理監督者には残業代はない、など、使用者側にも様々な主張があります。そうした意見の対立を乗り越え、譲るべきところは譲ったうえで、「真実の未払残業代の金額は不明なまま」、解決を図るのが和解です。なぜなら、対立関係にある企業側、従業員側の主張の法律的な意味での正しさは裁判所が裁定するものであり、未払残業代の有無及びその額は、終局的には裁判によってしか確定され得ないものだからです。「未払残業代は確かに500万円あるけど、200万円で和解しよう」「未払残業代500万円のうち300万円はあきらめるから、200万円払ってくれたら良いよ」などと言って和解の交渉が行われることはありません。そもそも、未払残業代の金額は、主張が対立し争いとなっている以上、客観的に一義的なものとしては確定できないのです。「未払残業代はせいぜい100万円しかないはずだが、万一労働者側の主張が裁判で認められたら大変なことになるから、リスク回避のために、譲歩して200万円で解決しよう」「未払残業代は500万円くらいあるような気がしているが、残業許可制が有効だとすると300万円もないかもしれないし、裁判で1年も2年も戦うのは大変だから200万円で和解しよう」などというのが通常の和解ではないでしょうか。
  
このように考えると、未払残業代請求がなされた場合に、解決金の支払いによってその紛争を収束させることは、「賃金債権の放棄」とは一線を画すると考える方が合理的です。そもそも「放棄」の対象である賃金の有無及び額を巡って争われているわけですから、賃金債権を放棄する論理的前提を欠いています。したがってこれについての和解は「賃金債権の放棄」にはあたらず、その争いは純粋に和解の効力(民法696条)のみが問題とされるべきだというのが私の見解です。

まとめ-和解で解決する場合の使用者側の注意点

法律的見解について少々長く述べてきましたが、企業がこうした法的解釈について深く理解することは容易ではなく、またここまでの論考に立ち入る必要もありません。未払残業代請求そのものについての和解が「賃金債権の放棄」として問題となるか否かということは、判例によって明確な答えが出されているわけではなく、弁護士にとっても難解な問題だと感じています。
  
どのような法的解釈がとられるか否かにかかわらず、未払賃金を巡る交渉において大事なことは、交渉の足跡を客観的に残しておく、ということになるかと思います。交渉を尽くした結果として和解が成立したのであれば、従業員の側がこれを蒸し返そうとする意を持つ可能性はそもそも低くなるうえに、たとえ「賃金債権の放棄」に関する自由意思の問題を持ち出されたとしても、その自由意思を肯定することは十分に可能です。たとえば、交渉のやり取りを口頭だけではなく書面等でも行うことや、和解合意書についてはその内容に労働者側の主張を盛り込んだうえで解決内容を示す等丁寧に作り込むということが大切となります。賃金債権を対象とした和解をするにあたっては、その他の交渉事項についての和解以上に、より一層丁寧かつ誠実な対応が必要といえるでしょう。

【国土リアル・エステート事件‐大阪地判平成5年5月26日】
事案

従業員Xが、不動産売買を成立させた歩合給としてY社とその代表者に500万円の報酬を請求した後、和解金150万円の支払を受けることを条件にすべての債権を放棄する旨を約定して和解金150万円の支払を受けたところ、従業員Xは報酬支払債権を放棄する意思は無く、この点に錯誤がある旨を主張して和解の無効を争った事案

判旨

・賃金債権を放棄する意思表示は、それが自由な意思に基づくものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するときは有効である
  
・Xは、Y社との間の雇傭関係終了の約7か月後に和解契約を締結したものである上、当時復職の意思も全くなく、したがって、Y社又は代表者Aとの間の雇用関係に基づく従属的立場にない状態で右契約を締結したものであること、Xは、Y社に対する債権放棄の意思表示をする対価として150万円の交付を受けたこと、右契約締結のための交渉は、XとY社らの代理人であるCとの間でされたものであるが、同人の交渉態度も格別威圧的なものではなかったことが認められること等から、Xが、和解契約において、和解金150万円の支払を受けることを条件として、その自由な意思に基づいて報酬債権を放棄したと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するものというべきである

【インガソール・ランド事件‐東京地判平成23年1月28日】
事案

特別退職制度に応募して退職した従業員Xが、「募集要項の条件の他にはいかなる請求も存しないことを確認、合意致します」などと記載された清算文言を含む特別退職申込書を提出していたにもかかわらず、在職中の未払賃金(時間外及び休日割増賃金)700万円あまりをY社に請求したもの

判旨

・特別退職制度の申込書に記載された同制度募集要項の条件のほかはいかなる請求も存しないことを確認する旨の清算文言は、特別退職制度募集の時点において現に支給されていた賃金以外の一切の雇用契約上の債権債務を清算するために、その余の請求権を放棄する趣旨の文言と解するのが当事者間の合理的な意思解釈として相当
・Y社は、退職説明会を開催し、特別退職制度の内容、条件等について、Xを含めた従業員に対し退職申込書の清算文言を読み上げるなどして、優遇された条件で退職することができる代わりに、会社に対する一切の権利はなくなり清算されることを明確に説明していたこと、Xは清算文言の記載された退職申込書に自筆で署名・押印のうえこれをY社に提出したが、その際、Xが、退職条件等に関し、何か異議を述べたり、留保を付けたりすることはなかったこと等の退職合意成立の経緯に照らせば、Xが自由な意思により清算文言を含む退職申込書をY社に提出して退職合意が成立したものと認められ、Xは、自由な意思に基づいて、清算文言により本訴請求に係る未払賃金を放棄したものと認められる

労務管理には専門家の支援を

ここでは未払残業代請求を受けた場合の和解の注意点について説明をさせていただきました。残業代請求では、「割増賃金の基礎となる賃金」、「固定残業代制度」あるいは「労働時間規制の適用除外」など、様々な法的事項が交渉及び訴訟において争点となりえます。
  
労働規制は複雑なうえに、その理解と運用を誤れば数百万円、あるいは1000万円を超える未払い賃金・残業代請求として大きなリスクを企業にもたらします。労務管理については、労働問題に強い弁護士などの労務の専門家の支援を受けながら、制度設計と運用をされることを強くお勧めいたします。真面目に経営をされている経営者の皆様が、法を「知らなかった」、あるいは「軽んじていた」がために、苦しい思いをされることが少しでもなくなるようにと願っています。


 

当事務所では、予防法務の視点から、企業様に顧問弁護士契約を推奨しております。顧問弁護士には、法務コストを軽減し、経営に専念できる環境を整えるなど、様々なメリットがあります。 詳しくは、【顧問弁護士のメリット】をご覧ください。

実際に顧問契約をご締結いただいている企業様の声はこちら【顧問先インタビュー

関連記事はこちら

労働コラムの最新記事